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八丁沖ウォーク Historical Walking of Hattyou-Oki [八十里越え]

10月13日

八十里越体感バスツアーの八丁沖ウォークの日です。
今日はバスは八十里越えには行かず、八十里越えにゆかり深い戊辰戦争の歴史をたどる旅になります。長岡の河井継之助記念館友の会主催の八丁沖ウォークに参加することがメインイベントになります。

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まずは戊辰戦争におけるしただ郷最大の激戦地である赤坂古戦場へ立ち寄ります。慶応4年5月19日第1回長岡城落城後、5月24日この赤坂峠で西軍(新政府軍)と東軍(村松藩を中心とした奥羽列藩同盟軍)が対峙し500名にも及ぶ戦死者を出した戦を繰り広げました。

なお、昨日この周辺にクマが出没したと聞き、クマ除けの鈴を借りて来てツアー参加者の皆様の安全をはかりました。

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八丁沖ウォーク出発地点の北越戊辰戦争伝承館に行きます。
長岡藩牧野家17代目御当主、18代若様をお迎えし出陣式です。四斤山砲2門を撃ち出撃します。
私たち以外にも、只見町から多数、東京からもと150人にもなる参加者です。只見の河井継之助記念館ガイドの知人に会えたのもラッキーでした。今年は只見の河井継之助記念館も戊辰戦争150年というこか来館者が増えているそうです。

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私たちは福井、百束集落を巡って行きます。
そして田んぼ道を八丁沖の沼地跡へと向かいますが、この辺りから遠くですが番屋山、八十里越え、守門岳がよく見えます。左の尖った山、飛んでる鳥の真下が番屋山です。その右の尾根が八十里越え山々、さらに守門岳です。この場所で、lやがて会津への道をたどることになる八十里越えが望めるとは!
手前の山並みの下には新政府軍陣地が点在し、八丁沖中心とした低地を挟みこちら側西の奥羽列藩同盟軍と対峙していました。
また、平成16年7・13水害の時には一帯が2mほどの水に覆われて戊辰戦争当時のような低湿地になり昔の八丁沖を偲ぶことが出来たそうです。
やはり現場に立って見ると当時の状況がつぶさにわかるものです。

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慶応4年7月24日の深夜に長岡藩兵17小隊約680名の長岡軍が、夜陰に紛れて八丁沖を6時間費やして渡り長岡城を奇襲した。翌朝対岸に着いた長岡軍は新政府軍を奇襲した。長岡軍は一気に長岡城下まで攻め込んで山県有朋(狂介)が指揮する新政府軍を撃退し、長岡城を奪還しました。
今は日中ですが、約150人にもなる参加者が大沼跡の田んぼ道を進みます。今日は好天に恵まれて赤トンボもいっしょに進撃します。

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八丁沖の低地の地形はほとんど変わらないのですが、排水が進み今ではすっかり美しい田んぼに変わっています。わずかに当時を偲ばせるカヤ原がありました。(上)このようなカヤに隠れて行けば音を立てなければ身近の敵陣にも気付かれずに進むことが出来たのです。
今日はゲリラ戦ということではないので、要所要所で牧野家18代の若君が皆に掛け声をかけかけてくださいます。鬨の声を挙げ元気に6〜7kmのコースを歩ききります。

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目的地の富島町にある日光神社や八丁沖古戦場パークにたどり着きました。
シメはやはり四斤山砲発射です。

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その後バスで伝承館へ戻り、オニギリ、味噌汁の昼食や伝承館見学をしてから皆さんと別れて長岡城(長岡駅)方向へ行きます。
長岡城本丸は現長岡駅で、二の丸跡はアオーレ長岡になり(左上)遺構うはほとんど失われています。
そこから、河井継之助記念館に行き館内でガイドの方の説明を伺います。
河井継之助の墓は只見町塩沢にもあるのですが、長岡の牧野家菩提寺にもあります。(右上)河井継之助の遺骨は明治3年に、会津若松の建福寺から栄凉寺に移葬されています。墓碑の「河井」の文字は削られ不明瞭です。戊辰戦争の戦いの場になった長岡人たちの河井継之助に対する複雑な思いを表しているようです。
この後、長岡を後に三条へ戻ります。
曲渕戊辰戦役の地へ行きます。五十嵐川左岸の曲渕堤防上に碑あります。(下)

新政府軍は海からも押し寄せます。太夫浜に上陸し、西郷吉之助は隣の松ヶ崎(今の松浜・私の実家のあるところ)にやって来ました。同級生のお母さんの太夫浜にあるご実家に西郷の書がかつてあったとのことです。北越戊辰戦争は片田舎の私たちにも関わりがありました。

新たな新政府軍の増援も加わり慶応4(1868)年7月29日に長岡城再落城し、奥羽越列藩同盟軍は、見附・大面を通って敗走し三条市内に来ます。
8月2日には、五十嵐川左岸に新政府軍、右岸には同盟軍が陣を構え戦闘が行われ、多数の戦死がでました。月岡・諏訪方面から曲渕に進軍してきた薩摩藩の番兵二番隊には、西郷隆盛の弟、監軍であった吉二郎がいました。当時五十嵐川はもう少し南側を流れ右岸には高い堤防が有りましたが、左岸には無くて、吉二郎は田島側の同盟軍の小銃により腰に被弾し瀕死の傷を受け、その後運ばれた柏崎の野戦病院で36歳の若さで亡くなりました。

その後、奥羽越列藩同盟軍は八十里越えを通って只見町、会津へと逃れることになります。
今日は1日で長岡城落城、奪還、再落城そしてその後に起こったことまで駆け足で見て回りました。濃い1日でした。このバスツアー参加者の皆様にもご満足いただけたでしょう。
150年前つまり明治元年は、この中越の地は右往左往の戦乱下にあったのですね!

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コメント 2

JUNKO

大勢で歩くの学校の遠足見たいで楽しいでしょうね。お天気も良くて気持ちよかったことでしょう。
by JUNKO (2018-10-17 15:04) 

モリガメ

150年前の出来事を想像しながら歩きました。天気が良いのは何よりのことでした。
by モリガメ (2018-10-17 16:20) 

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